このブログを検索

2012年6月30日土曜日

タリスカー

今日の寝酒は「タリスカー10年」。 
スカイ島のシングル・モルト・ウィスキーです。 
ピートの香りがあるが「ラフロイグ」ほど強烈じゃない。 
(ラフロイグについては、投稿「ラフロイグとダッフルコート」2012/2/2を参照して下さい)



「ラフロイグ」がアイラ島の荒々しい大地の味だとすると、「タリスカー」は文化の気高さが感じられる味。「孤高の気高さ」という感じです。 



スコッチを飲むと、定番すぎるかもしれませんが田村隆一が思い浮かびます。 

「ウィスキーを水で割るように/言葉を意味で割るわけにはいかない」(「言葉のない世界」)が有名ですが、わたしは次の詩の方が好きです。 

  きみが目覚めるとき 
  どんな夢を見る? 
  青いライオンに追いかけられて 
  地の果てまで? 
  それとも死んだ男と抱きあって 
  金色のウイスキーを飲みながら漂流する? 

  朝 二日酔の電話のベルが鳴る 
  きみは鉛の腕をのばす 
  ああ 怖い夢なんか見ていなかったのだ 
  青いライオンも 
  金色のウィスキーも。 
   (『この金色の不定形な液体』新潮社 1979 より) 


田村隆一がまだ元気だった頃、民放テレビで田村隆一スコッチ紀行を放送したことがありました。 

長身で孤高の老人の風格がある田村隆一が、スコットランドのウィスキーの酒蔵を次々に訪れては、樽からついでもらったスコッチをグイと飲み干し、いかにも詩人らしい含蓄のある評をする。 

厚手のチェスターフィールド・コートを来た銀髪の田村隆一はほんとうにかっこよかった。 

最後のシーンは、英国本土最西端の海を見下ろす絶壁の上で、スコッチ・ウィスキーのボトルとグラスを手にした田村が海に向かって座り込み、ひたすら飲み続ける。


その姿が、人間の孤独と俗と気高さを体現していました。


それをヘリコプターから俯瞰して番組は終わる。 

すばらしい番組でした。 







「金色の不定型な液体」のせいで、青いライオンが見えてきました。 
わたしの中にいるライオンなのでしょう。 

地の果てまでおいかけられないように、もう寝ます。 

2012年6月28日木曜日

父母

あるとき、ふっと親のことがわかるときがあります。 

十代の頃、親に言われたことばでなぜか鮮明に記憶に残っていることばがいくつかある。 
別に立派で意味深いことばというわけじゃない。 

でも、記憶に残っている、ということには何か意味があるはずなんです。 
あるとき、その意味が雲が晴れるようにさーーーっと見えてくる、という感じでしょうか。 
記憶に残っていた理由がはじめてストンと腑に落ちる、という感じでしょうか。 


中学生の時に、母親が「こういうのも読みなさい」といってある小説を渡したことがあった。教育ママではなかった母がそんなことを言うのはとてもめずらしいことだったので記憶に残っているのかもしれません。 

それがなんと、 中年夫婦の話。 

美人の奥さんは夫をそれなりに愛しているのだけれど、若い男とあぶない関係になる。 
実際には不倫の関係まではいたらないんだけど、その揺れ動きが今思うとものすごくリアルに描かれていた。 
中学生だからあぶない場面を読んでドキドキした。 

わたしは推理小説とかSFを愛読していたので、 
「こげんとは面白うない!」と言ったら、母親は 
「あっ、そう」と言っただけでした。それっきりその小説のことを口にすることはなかった。 



なぜあんな小説を中学生に読ませたんだろう、というのはずっと心の片隅にひっかかっていました。 


酔っぱらってそのことを思い出したら「あっ」とわかってしまった。 
母親は「複雑さ」を教えたかったんだ。 

人間は、自分も含めて一筋縄ではいかない。 
「正しいこと/いけないこと」の二分法だけでは人間という矛盾に満ちた存在を理解することができない。 


それを教えたかったんだと思う。大げさに言うと 
「複雑さに耐えて生きろ」という教育。 







父親はそれと対照的。 

「勉強せんかい!」「体を鍛えんかい!」 
ことばは「教育的」です。 典型的な「九州の父親」です。

でも実は父親は世間的な意味での教育を放棄していたんじゃないかと思います。 


責めているんじゃなくて、父親は、苦労を重ねたすえにうまくいかず、人生がままならないことを身にしみて思い知らされてしまった。 

そのときに、「教育(学歴)」とか「社会的りっぱさ」とか「経済的豊かさ」とかを全部はぎ取られて裸一貫になったときの姿、そこに人間の真価というようなものがあらわれる、大事なのはそれだけだ、という確信を持ったんだと思います。 

「勉強しろ!」と言ったのは、ま、家長としての義務を果たすというそれだけのことだったんじゃないだろうか。



父親の真価は夕食の時に発揮されました。
 
ジョークをかまして食事のあいだじゅう家族は笑い続ける、と言っても過言じゃない。食事を喜劇の場にする。
 



貧しくても楽しい食事。父親に反発を感じていた10代のわたしですが、一度も家出しようという気にならなかった。

父はそこに自分の全思想を賭けていたのだと思います。 
家族や友人と楽しい食事をできない人間は、いくら社会的に成功していようと、いくらお金があろうとだめな奴なんだ。楽しい食事ができるかどうか、それだけが人間の質を決定する。 


今思うとものすごい思想だと思います。 



父親のことばで記憶に残っているのは、近所の小さな洋品店を営んでいるお爺さんが話題になったとき。はやらない洋品店でした。でも幸せそうだった。 


父親はそのお爺さんを評して 

「あの人はいい! ほがらかやから」 

と力強く言いました。 




「ほがらか」であり続けることの難しさを年を追うごとに感じます。 
その難しさを父親は骨身にしみてわかっていたのだと思います。 



対照的ですが、父も母もものすごい教育を授けてくれた。 そのことに頭が下がる思いがします。





2012年6月11日月曜日

『華氏451度』(レイ・ブラッドベリ追悼)


(先日亡くなったレイ・ブラッドベリ追悼の続きです。ネタばれあり)
『 華氏451度』Fahrenheit 451 (1953) は恐い作品です。
華氏451度とは「本のページに火がつき、燃えあがる温度」のこと。
主人公モンターグは近未来アメリカのファイヤーマン。
言うまでもなく、現代英語のファイヤーマン fireman は「消防士」を意味します。
しかし、この小説世界のファイヤーマンは書物を焼く「焚書官」。
建造物が耐火構造になったこの世界では消防士は必要ない。モンターグたちは現代の消防士と同じようにポールを滑り降りて現場に急行しますが、密告を受けて着いた現場でファイヤーマンたちが手にするのは、消火ホースではなく石油のホース。
書物を灰になるまで焼き尽くします。それがファイヤーマン(焚書官)の仕事。
書物が禁じられた世界です。
人々は「貝の耳」と名づけられた超小型トランジスタ・ラジオを耳にはめこみ、壁全部がテレビとなった居間で、紋切り型のドラマの登場人物となって(双方向番組!)、日がな一日ドラマと音楽に浸る生活をしています。
そんな生活に順応せずに書物を読み思索する人間は不穏分子として目をつけられ、監視されている。
ファイヤーマンのモンターグは、隣に引っ越してきた「十七歳で頭がすこしおかしい」少女クラリスと出会って、少しずつ変わり始める。
「あんた、幸福なの?」(以下、引用は宇野利泰訳)
とクラリスに問われてモンターグは自分の生活に疑問を抱き始める。
結婚して10年、妻のミリーはテレビ室に入り浸り。
睡眠薬に溺れながら、そんな生活に何の疑問も抱いていない。
「貝の耳」のせいで二人のあいだには会話らしい会話もない。
ある夜の焚書がモンターグを決定的に変えてしまいます。
屋根裏に書物を隠し持っていた老婆が、モンターグの説得にもかかわらず退去を拒否して、威厳ある態度でマッチに火をつけ、書物とともに焼死する。
ショックを受けたモンターグは、帰宅後、心の惑いを妻ミリーと共有したいと願います。
「ぼくたち、いつ会ったんだっけ? それに場所は?」
きっかけとして遠慮深く問いかけたモンターグにミリーは答えられない。モンターグも思い出せない。
「そんなこと、どうだっていいのじゃなくて?」
「いや、どうでもいいことじゃなさそうだ」
惑いを自分一人で抱え込んだモンターグは、床にもどし、翌日欠勤する。
モンターグが
「本を千冊も焼いたのさ、女もひとり焼いた」
と前夜のできごとを告げ、退職をほのめかすとミリーは責め立てる。
「本なんかもっていたのがわるいのよ。そんなめにあうのも自業自得だわ。本は焚かれるのにきまってるじゃないの。そんな女、わたし、きらいよ。その女のおかげで、あなたが、失業する。わたしたち、どうしたらいいの? 家はない、仕事はない」
この作品の怖さはこういうところにあると思います。
管理された近未来世界を描く小説や映画は数多い。その原型となったのが他ならぬ『華氏451度』で、ウォークマン、iPod、双方向番組等、わたしたちの時代を60年も前に予告している作品だと評されることが多い。
しかしこの作品の真価のひとつは、その「予言性」ではなくて、殺伐とした近未来世界を支える「ふつうの人々」の姿を描ききっていることだと思います。支配者の恐ろしさを描くのではなくて、支配者を支える無自覚な善意を描いている。
ミリーに悪意はまったくない。
自分と家族のささやかな「幸福」を願っているだけ。
しかしそれが事実として支配を強固に支える力となってしまう。
なぜささやかな善意が恐ろしい支配を支えてしまうのか?
「複雑さへの無意識の嫌悪」「わかりやすい単純なことば」が支配を支えてしまうのだ。
ブラッドベリはそう言っている気がします。
上のミリーの言葉は明快です。とてもわかりやすい。
わたしたちだってこんな単純明快なことばにうなづいてしまいたくなる。
「ぐちゃぐちゃめんどくさいことを言うのはやめようぜ。結局こうだろ」と。
でもモンターグはその単純明快なことばに納得できない。納得できないけれど、それをうまく説明することができない。モンターグはこう言います。
「きみは、そこにいなかったから、そんなことをいう。見なかったからだ。本のなかには、なにかがあるんだ。ぼくたちには想像もできないものが――女ひとりを、燃えあがる家のなかにひきとめておくものが――それだけのものがあるにちがいない。なんでもないもののために、だれだって焼け死のうとはしないからね」
モンターグは老婆の焼死によって「単純明快ではないもの」に直面させられ、そして書物が「単純明快ではない」ものに深く関わるものであることを直感したのです。
なぜこの小説世界で書物が禁止されているのか?
それをモンターグと(それにわたしたち読者に)明かしてくれるのがモンターグの上司ビーティです。
とても複雑な人物。焚書の責任者でありながら、書物と歴史の本質を見抜いている智者でもあります。
「平穏無事がなにより大切なことだ。国民には、記憶力のコンテストでもあたえておけばいい。それもせいぜい、流行歌の文句。州政府の所在地の名でなければ、アイオワ州における昨年度のとうもろこし生産量はいくらといった問題がいい。
〈中略〉
そうこうしているうちに、国民はそれぞれ、自分も相当の思索人だと思い込んでしまう。うごきもしないのに、うごているような気持ちを意識することになる。それでかれらは幸福になる」
その「平穏無事」の大敵は複雑さです。
「古典ものは切りつめて、十五分のラジオ番組に、あてはめる。それをさらにカットして、二分もあれば目がとおせる分量にちぢめ、〈中略〉ダイジェスト版のダイジェスト版、そのまた、ダイジェスト版。政治問題? そんなものは一段でよかろう。二行もあればたくさんかな。なんなら、見出しだけにしておくか」
ビーティのことばに自分のことを言われているような気がしませんか?
書物は「ダイジェスト版のダイジェスト版」の対極にあるものです。複雑。
なぜなら、モンターグが気づいたように
「その人間が、考えていることを書物にするまでには、おそらく一生を費やしたのじゃないかな。世界を見、人を見、一生を賭けて考えぬいたあげく、書物のかたちにしているのだ」からです。
書物を守ろうとする人々の代表、グレンジャーはこう言います。
「遠いむかし、手近かに多くの書物をおいていたころでも、わたしたちはその書物から得たものを、役立てようとしなかった。わしたちは死者を侮辱することしか考えなかった。わしたちよりまえに死んだ哀れな人たちの墓に、唾をかけることしか知らなかった」
書物を読むとは、過去に複雑な生を生きた死者たちを受けとめ、鎮魂することだ。
書物の存在意義はそこにある。
3.11の大震災のあと、わたしたちは、死者をどう悼むかを考えざるを得ません。
多くの写真店のボランティアが、津波でだめになった家族の写真を修復しようと努力しました。
わたしのハヤカワSFシリーズは、
高校生の時に買ったのでボロボロです。
家族の写真がなぜそれほど大事なのか?
死者が生きた複雑な生の逐一を辿りたいからではないでしょうか。
わたしだって「××年、○○県に生まれ、△△と結婚し、□□で働き、▽▽に死んだ」と自分の生をまとめらてしまうことに耐えられません。それは「ダイジェスト版のダイジェスト版」です。「わたしはそんなダイジェスト版では伝えられない複雑な生を生きた。あの時、あの場所で、あんな想いで、あんな笑顔をした」
一枚の写真をもとに戻したい、という願いには、死者の複雑な生をそのまま受けとめて、そのことで死者を鎮魂したいという思いが込められているのではないでしょうか。
数千年にわたる死者たちのさまざまな複雑な生を垣間見させてくれるもの、それが書物です。書物を読むことによって、わたしたちは無数の死者たちに思いを馳せ、安らかに眠りたまえ、と祈ることができるのではないでしょうか。
『華氏451度』は、そんな観点から書物の意味を伝える、足がすくむような名作だと思います。

2012年6月7日木曜日

さようならレイ・ブラッドベリ

レイ・ブラッドベリ Ray Bradbury が亡くなりました。享年91。
アメリカのファンタジー、SF作家。新聞でも大きめに扱われていたので、改めてどういう人かを紹介するのはやめておきます。
天寿を全うしたのでしょうけれどやはり悲しい。
どの作品も好きです。
でもベストは
『何かが道をやってくる』(創元SF文庫) Something Wicked This Way Comes (1962) と
『華氏451度』(ハワカワ文庫SF) Fahrenheit 451(1964)。
 

忘れもしません、中学3年生のときに『何かが道をやってくる』を読んだときの感動は。以来、ほんとうに何十回も読みました
こんなお話です(それほどネタばれありません)。






ハロウィーンが近づくある夜、とあるアメリカの田舎町に蒸気オルガンの音楽とともに不思議なカーニバルがやってくる。主人公ウィル・ハロウェイは思春期の少年。お父さんがけっこう年取ってからできた、ただ一人の子供です。このウィルと、ちょっとひねた親友のジム・ナイトシェイドが、カーニバルのサーカス団の恐ろしい秘密に出くわすファンタジー・ホラー。 


恐い。時間と老いというとても深遠な問題に、ローティーンの男の子たちが直面させられます。


そしてあやしく美しい。夜、気球に乗った魔女から屋根の上を追いかけられるシーンは圧巻。 


図書館で働くウィルの老いたお父さんがいい。距離を取りながら思春期の二人をしっかり見守る。でも彼自身も迫り来る老いと格闘している。カーニバルの恐ろしいできごとを通じて、ウィルとのあいだに父子の関係が確認されていきます。 


若返りたい、と大人なら誰もがいだく願望のせつなさとはかなさがテーマです。ローティーンの主人公はもちろんそんなせつなさとはかなさは体験してません。でも「ああ、そういうものがあるのかもしれない」という想像力を獲得して少し大人になっていきます。 




私はアメリカの田舎を舞台にした小説、特に土地が醸し出す雰囲気や、そこに暮らす若者の屈折や複雑な心の襞を描く作品がけっこう好きです。『何かが道をやってくる』は、そういう胸うずくアメリカの青春、とくにローティーンの少年の文学の系譜に属す名作です。マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』に始まって、この小説を経て、スティーヴン・キングの『スタンドバイミー』に続くアメリカ文学のすばらしい系譜だと思います。 


ブラッドベリは何より文が美しい。英語で読むともっといい。幻想的でイメージ喚起力のある文です。




何十回も読むと、若いときには気づかなかったことがいろいろ見えてきます。




ウィルのお父さんは図書館に勤めている。
父子にとってまたジムにとって、図書館に並ぶ書物の世界は田舎町の外の世界に通じる窓です。文学少年だとかガリ勉とかではない二人の少年が自然に図書館に親しんでいる。
ブラッドベリの影響を強く受けているスティーヴン・キングの『IT』(「アイティー」じゃなくて「イット」です)は、地方都市の少年・少女たちの夏休みの体験と、その数十年後の再会を描いた傑作です。


その登場人物の一人、当時有名だった体重200数十キロのプロレスラー「ヘイスタック(乾草の山)・カルホーン」とみんなから呼ばれているおでぶのベン・ハンスコム君も、暖かいガラス張りの渡り廊下がある、町の図書館が大好きです。
実を言うと、わたしはアメリカにあまり興味がなくて、旅行するつもりも当分ないのですが、もしアメリカを旅行する機会があれば、観光地ではない地方都市の図書館を見てまわりたい気がします。
アメリカよりもっと範囲を広げると、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』や、カルロス・ルイス・サフォンの『風の影』などの「図書館の文学」とでも言ったらいいんでしょうか、『何かが道をやってくる』はそういう系譜に属す作品として見てもいいんじゃないかと思っています。




 それからもうひとつ。
闇のカーニバルは蒸気オルガンの怪しい調べとともに町にやって来ます。蒸気オルガンを英語で「カライアピー」と言うのを中学生の時にこの本で知りました。
「カライアピー」は、古代ギリシアの詩の女神ムーサたちの一人、カッリオペーから来ています。カッリオペーが司るのは叙事詩。
闇のカーニバルは、人を魅惑する音楽で「若さを取り戻したい」と願う人々を罠に誘い込みます。
叙事詩『オデュッセイアー』で、魅惑の歌で船乗りたちを虜にしてしまう魔女セイレーン(「サイレン」の語源です)のように。
セイレーンの歌は、単なる魅惑の歌声ではない。


「(私の歌を)聞いた者は心楽しく知識も増して帰ってゆく。わたしらは、アルゴス、トロイエの両軍が、神々の御旨(みむね)のままに、トロイエの広き野で嘗めた苦難の数々を残らず知っている。また、ものみなを養う大地の上で起こることごとも、みな知っている」(松平千秋訳、岩波文庫)


とセイレーンはオデュッセウスを誘惑します。セイレーンの歌そのものが叙事詩なんですね。


セイレーンの歌は、世界を知りたいという人の欲望に訴えかける。
カーニバルは、若さを取り戻したいという人の欲望に訴えかける。
若さを取り戻す甘美の物語(叙事詩)が、魅力とともに持っている「魔力」。
それをカライアピー(蒸気オルガン=叙事詩の女神)が象徴しています。


『華氏451度』についても書きたかったのですが、すでに十分な長さになっていますので、別の機会にまわします。
レイ・ブラッドベリ氏のご冥福をお祈りします。さようなら。

2012年6月4日月曜日

Bar in Kyoto

学会で京都に行ってきました。


コメンテイターを務めることになったシンボジウムの準備は新幹線の中でなんとかすませて木屋町通り近くのホテルにチェックイン。
風呂に入る前に飲みたくてバーを探しました。 

バーの看板はいっぱいあった。 自分の嗅覚を信じて入ったのは「BrandNew」(「ブランニュー」だと思います)という地下のバー。 木屋町通りからちょっと入った目立たない店です。 

大当たり!!! 

ぼったくられるんじゃないかとおそるおそる入ったんですが、勤め帰りの常連さんらしき客が二人しかいないのでまず安心。
 
清潔なカウンター。  
近づく祭り(何の祭りじゃ? 祇園祭? よそ者が立ち入るべきではなさそうな話題だったのできけませんでした)の話題でたのしそうな常連さんとバーテンダーの会話に聞き耳を立てながら棚を観察。小さな棚だけど、品揃えがよさそう。

まずラフロイグ10年をダブルで頼んだら、何も言わないのにチェイサーの水が出て来た。
「おっ、いいじゃないか」というのが第一印象。 
棚にジュース類が見えないので「カクテルはやってないんですか?」と尋ねると 

「いや、作れます」 

というので、「じゃ、マーティーニを」と注文する。 おいしいドライ・マーティーニ!! 聞いたことのないジンを使ってる(と言ってもそもそもそんなにくわしくないんですけど)。 
一口飲んで「うーーーん、おいしい」 というと、バーテンダーさんニッコリ笑った。 
マーティーニ、バーテンダーの腕がいちばんわかりますからね。  


「べらぼうに高いのは困るけど、お勧めのシングル・モルトありますか?」 
と尋ねると、しばらく考えて 


「これです」 


と出してくれたのが Balmenach  27年もの (!!!) というシングル・モルトのウィスキー。 
(酔っぱらっていたのでブレブレの写真です)
「ストレートがいいですよね」と言われて、当然その助言に従いました。 


もう、すーーーーーーーーーーーーーんばらしいウィスキー。 身も心もとろけそうな味でした。 


(あとで調べたら、スコットランドはスペイサイドのシングル・モルト。スコットランド語だろうから発音わかりません。綴り通りに読めば「バルメナック」でしょうけど、「バミノッホ」とかかもしれない。ご存じの方は教えてください) 


酔っぱらって少しずつ会話が進み始めました。 
バーテンダーと話しないと一人のバーはつまんないですからね。

お勘定をして 「楽しかった、おいしかった」 と言うと、名刺を差し出して表まで送ってくださいました(この日本語、変か?)。 
5,000円台でした。東京では考えられない。 


京都に行ったらぜひ寄ってください(京都市中京区河原町六角東入ル六角ビル地下1F)。 
いいバーです。