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2012年6月11日月曜日

『華氏451度』(レイ・ブラッドベリ追悼)


(先日亡くなったレイ・ブラッドベリ追悼の続きです。ネタばれあり)
『 華氏451度』Fahrenheit 451 (1953) は恐い作品です。
華氏451度とは「本のページに火がつき、燃えあがる温度」のこと。
主人公モンターグは近未来アメリカのファイヤーマン。
言うまでもなく、現代英語のファイヤーマン fireman は「消防士」を意味します。
しかし、この小説世界のファイヤーマンは書物を焼く「焚書官」。
建造物が耐火構造になったこの世界では消防士は必要ない。モンターグたちは現代の消防士と同じようにポールを滑り降りて現場に急行しますが、密告を受けて着いた現場でファイヤーマンたちが手にするのは、消火ホースではなく石油のホース。
書物を灰になるまで焼き尽くします。それがファイヤーマン(焚書官)の仕事。
書物が禁じられた世界です。
人々は「貝の耳」と名づけられた超小型トランジスタ・ラジオを耳にはめこみ、壁全部がテレビとなった居間で、紋切り型のドラマの登場人物となって(双方向番組!)、日がな一日ドラマと音楽に浸る生活をしています。
そんな生活に順応せずに書物を読み思索する人間は不穏分子として目をつけられ、監視されている。
ファイヤーマンのモンターグは、隣に引っ越してきた「十七歳で頭がすこしおかしい」少女クラリスと出会って、少しずつ変わり始める。
「あんた、幸福なの?」(以下、引用は宇野利泰訳)
とクラリスに問われてモンターグは自分の生活に疑問を抱き始める。
結婚して10年、妻のミリーはテレビ室に入り浸り。
睡眠薬に溺れながら、そんな生活に何の疑問も抱いていない。
「貝の耳」のせいで二人のあいだには会話らしい会話もない。
ある夜の焚書がモンターグを決定的に変えてしまいます。
屋根裏に書物を隠し持っていた老婆が、モンターグの説得にもかかわらず退去を拒否して、威厳ある態度でマッチに火をつけ、書物とともに焼死する。
ショックを受けたモンターグは、帰宅後、心の惑いを妻ミリーと共有したいと願います。
「ぼくたち、いつ会ったんだっけ? それに場所は?」
きっかけとして遠慮深く問いかけたモンターグにミリーは答えられない。モンターグも思い出せない。
「そんなこと、どうだっていいのじゃなくて?」
「いや、どうでもいいことじゃなさそうだ」
惑いを自分一人で抱え込んだモンターグは、床にもどし、翌日欠勤する。
モンターグが
「本を千冊も焼いたのさ、女もひとり焼いた」
と前夜のできごとを告げ、退職をほのめかすとミリーは責め立てる。
「本なんかもっていたのがわるいのよ。そんなめにあうのも自業自得だわ。本は焚かれるのにきまってるじゃないの。そんな女、わたし、きらいよ。その女のおかげで、あなたが、失業する。わたしたち、どうしたらいいの? 家はない、仕事はない」
この作品の怖さはこういうところにあると思います。
管理された近未来世界を描く小説や映画は数多い。その原型となったのが他ならぬ『華氏451度』で、ウォークマン、iPod、双方向番組等、わたしたちの時代を60年も前に予告している作品だと評されることが多い。
しかしこの作品の真価のひとつは、その「予言性」ではなくて、殺伐とした近未来世界を支える「ふつうの人々」の姿を描ききっていることだと思います。支配者の恐ろしさを描くのではなくて、支配者を支える無自覚な善意を描いている。
ミリーに悪意はまったくない。
自分と家族のささやかな「幸福」を願っているだけ。
しかしそれが事実として支配を強固に支える力となってしまう。
なぜささやかな善意が恐ろしい支配を支えてしまうのか?
「複雑さへの無意識の嫌悪」「わかりやすい単純なことば」が支配を支えてしまうのだ。
ブラッドベリはそう言っている気がします。
上のミリーの言葉は明快です。とてもわかりやすい。
わたしたちだってこんな単純明快なことばにうなづいてしまいたくなる。
「ぐちゃぐちゃめんどくさいことを言うのはやめようぜ。結局こうだろ」と。
でもモンターグはその単純明快なことばに納得できない。納得できないけれど、それをうまく説明することができない。モンターグはこう言います。
「きみは、そこにいなかったから、そんなことをいう。見なかったからだ。本のなかには、なにかがあるんだ。ぼくたちには想像もできないものが――女ひとりを、燃えあがる家のなかにひきとめておくものが――それだけのものがあるにちがいない。なんでもないもののために、だれだって焼け死のうとはしないからね」
モンターグは老婆の焼死によって「単純明快ではないもの」に直面させられ、そして書物が「単純明快ではない」ものに深く関わるものであることを直感したのです。
なぜこの小説世界で書物が禁止されているのか?
それをモンターグと(それにわたしたち読者に)明かしてくれるのがモンターグの上司ビーティです。
とても複雑な人物。焚書の責任者でありながら、書物と歴史の本質を見抜いている智者でもあります。
「平穏無事がなにより大切なことだ。国民には、記憶力のコンテストでもあたえておけばいい。それもせいぜい、流行歌の文句。州政府の所在地の名でなければ、アイオワ州における昨年度のとうもろこし生産量はいくらといった問題がいい。
〈中略〉
そうこうしているうちに、国民はそれぞれ、自分も相当の思索人だと思い込んでしまう。うごきもしないのに、うごているような気持ちを意識することになる。それでかれらは幸福になる」
その「平穏無事」の大敵は複雑さです。
「古典ものは切りつめて、十五分のラジオ番組に、あてはめる。それをさらにカットして、二分もあれば目がとおせる分量にちぢめ、〈中略〉ダイジェスト版のダイジェスト版、そのまた、ダイジェスト版。政治問題? そんなものは一段でよかろう。二行もあればたくさんかな。なんなら、見出しだけにしておくか」
ビーティのことばに自分のことを言われているような気がしませんか?
書物は「ダイジェスト版のダイジェスト版」の対極にあるものです。複雑。
なぜなら、モンターグが気づいたように
「その人間が、考えていることを書物にするまでには、おそらく一生を費やしたのじゃないかな。世界を見、人を見、一生を賭けて考えぬいたあげく、書物のかたちにしているのだ」からです。
書物を守ろうとする人々の代表、グレンジャーはこう言います。
「遠いむかし、手近かに多くの書物をおいていたころでも、わたしたちはその書物から得たものを、役立てようとしなかった。わしたちは死者を侮辱することしか考えなかった。わしたちよりまえに死んだ哀れな人たちの墓に、唾をかけることしか知らなかった」
書物を読むとは、過去に複雑な生を生きた死者たちを受けとめ、鎮魂することだ。
書物の存在意義はそこにある。
3.11の大震災のあと、わたしたちは、死者をどう悼むかを考えざるを得ません。
多くの写真店のボランティアが、津波でだめになった家族の写真を修復しようと努力しました。
わたしのハヤカワSFシリーズは、
高校生の時に買ったのでボロボロです。
家族の写真がなぜそれほど大事なのか?
死者が生きた複雑な生の逐一を辿りたいからではないでしょうか。
わたしだって「××年、○○県に生まれ、△△と結婚し、□□で働き、▽▽に死んだ」と自分の生をまとめらてしまうことに耐えられません。それは「ダイジェスト版のダイジェスト版」です。「わたしはそんなダイジェスト版では伝えられない複雑な生を生きた。あの時、あの場所で、あんな想いで、あんな笑顔をした」
一枚の写真をもとに戻したい、という願いには、死者の複雑な生をそのまま受けとめて、そのことで死者を鎮魂したいという思いが込められているのではないでしょうか。
数千年にわたる死者たちのさまざまな複雑な生を垣間見させてくれるもの、それが書物です。書物を読むことによって、わたしたちは無数の死者たちに思いを馳せ、安らかに眠りたまえ、と祈ることができるのではないでしょうか。
『華氏451度』は、そんな観点から書物の意味を伝える、足がすくむような名作だと思います。

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