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2014年1月12日日曜日

『ライチ光クラブ』の少年の世界——古屋兎丸論 その2

「古屋兎丸論 その1」の続きです。ネタバレ全開)

1 古屋兎丸の「さよなら」


古屋兎丸(ふるやうさまる)は「お別れをしている人」だと思います。

自分がいちばん大切だと思っているもの、いちばん美しいと思っているもの、これだけは人にゆずれないと思っているもの。そういうものにお別れをしています。

これはつらいことです。力を振りしぼらないとできません。

そうまでしてなぜさよならを言わなければいけないのか?

自分にとって大切なもの、美しいもの、人にゆずれないものが、
実は自分を拘束し、狭い世界に閉じ込めているのかもしれない。
自分がそういう拘束から解き放たれ、自由になるためにはさよならを言わなければならない。

古屋兎丸はそういうつらい決意をしています。だから古屋兎丸の「さよなら」はいつも美しい。



『ライチ光クラブ』(2006年)は「美しい少年時代」へのお別れです。

原作は東京グランギニョルの演劇(1985-86年上演)。
古屋兎丸は高校生の時にこの上演を見て衝撃を受け、20年の熟成ののちに満を持して漫画化したそうです。忠実な漫画化ではなく、かなり改変した部分もある。

残念ながら、東京グランギニョルの舞台をわたしは見ていません。
プロットとそれを構成する基本要素を創り上げた東京グランギニョルには大いに敬意を表したいと思いますが、以下は、古屋兎丸の漫画作品としての『ライチ光クラブ』だけを対象にしています言わば、「東京グランギニョルの舞台を引用したひとつの独立した作品」として、漫画『ライチ光クラブ』を読むことにします。

また、この作品のあと、古屋兎丸は前日談である『ぼくらのひかりクラブ』を書いていますが、参照程度にとどめてあくまで『ライチ光クラブ』に焦点を絞ります。)



『ライチ光クラブ』には、過激な残虐シーン(これは東京グランギニョルを踏襲しているらしい)とつつましやかなBLシーン(これは古屋兎丸の改変らしい)があるので、そういうのがどうしても苦手な方は読むのをやめた方がいい(でも傑作です)。

プロットの大枠は、

廃工場を秘密基地にする、天才少年ゼラを中心にした9人の男子中学生の「光クラブ」の野望と裏切りの物語。少年たちは、果実ライチをエネルギー源とする人造人間ライチを造り出し、少女たちを誘拐させて幽閉する。ライチが美少女カノンを誘拐したことを機に光クラブの団結にヒビが入り始め、愛憎と暴力のドラマが展開する。

というものです。



「光クラブ」のメンバーをごく簡単に紹介します(ゼラ以外にはドイツ語のナンバーがついているので書きました。単行本表紙にあるそれぞれのキャッチフレーズも)。

ゼラ      「廃墟の帝王」。実質上のリーダー。眼鏡をかけた天才少年。クラブに
        鉄の規律を課す。人造人間ライチ製造の中心人物。
タミヤ(6番) 「真実の弾丸」。「光クラブ」の生みの親で、現在は名目上のリーダ
        ー
ジャイボ(8番)「漆黒の薔薇」。ゼラを同性愛的に愛している美少年。
ニコ(1番)  「忠誠の騎士」。ゼラに徹底的に忠誠をつくす。その忠誠心は自分の右
        目をライチの目としてさしだすほど強い。
雷蔵(2番)  「暗闇の乙女」。仕草や言葉づかいが女っぽい。
カネダ(3番) 「鬱屈の瞳」。幼馴染みであるタミヤ、ダフとともに「光クラブ」の創
        設期からのメンバー。
ダフ(5番)  「夢見る眼帯」。つねに眼帯をしている暗い少年。幼馴染みであるタミ
        ヤ、カネダとともに「光クラブ」の創設期からのメンバー。
デンタク(4番)「科学少年」。丸眼鏡をかけた機械オタク。その名は電卓に由来する。
ヤコブ(7番) 「地下室の道化師」。メンバーの中でいちばん影が薄い。


薄暗い秘密基地に、詰め襟の学生服姿で集結する「光クラブ」の少年たち。
ゼラの美意識に忠誠をつくすメンバーは暴力・殺人をいとわない。
ゼラと美少年ジャイボの薔薇愛。

こういう「いけない世界」の魅力が、古屋作品のうちでもっともコアなファンを惹きつけている要素なのでしょう。バロックの魅力です。
しかし古屋兎丸は——もっと正確に言うと、『ライチ光クラブ』の作品構造全体は——
そういう世界にお別れをしている。「さよなら」がこの作品の中核。
そのお別れをていねいに見ていきたいと思います。




本人が言っているように、この作品のテーマは「少年」です。
それもローティーンの少年。

「ローティーンの少年」というのは現代の芸術表現において大きなテーマのひとつだと思います。

自我が芽生えはじめる。
すると大人の「社会」が自分とは異質なものとして見え始める。
少年は、それに対して反発したり、あるいは無価値なものとして無視したりする。
(光クラブの少年たちは後者を選択しているようです)。

また、ローティーンは第2次性徴をむかえる時期でもあります。
自分の中に「性」という、これまでなかった異質なものが存在しはじめる。
「変わりつつある自分」をどう理解したらいいのか。そして欲望の対象となりつつある「女性」をどう理解したらいいのか。そういう惑いにおそわれる年代です。


わたしは女性でないのでよく理解できないのですが、同じような経験をしているはずのローティーンの少女は、少年と較べてそういう惑いや当惑の度合いが低い気がします。言い換えると、少年よりうまく乗り越えている気がする。

「生理が少女に与えるインパクトを甘く見るんじゃない」とおっしゃる女性がいるかもしれません。しかし少女の場合、第二次性徴と欲望が直結する度合いが少年より低いんじゃないかと想像します。少女にも欲望はわき起こると思いますが、体の変化と欲望のつながりの度合いが少年ほどストレートではないような気がします。

ちがっていたら教えてください。

ともかく、「社会・欲望・他者(女性)」という「自分にとって異質なもの」にはじめて直面させられるのがローティーンの少年です。

だからでしょう、「ローティーンの少年」は、「社会と欲望と他者」という人間にとって根源的な問題を極端に示す題材としていろんな作家に取りあげられています。

S・キング(小尾芙佐訳)『IT』
全4巻 文春文庫
楳図かずおは『14歳』という長編を書いていますし、
海を隔てたアメリカでは、
レイ・ブラッドベリが『何かが道をやってくる』を、
スティーヴン・キングが『スタンドバイミー』、それをさらに展開した『IT』を書いています。

いずれもホラーなのが興味深い。
少年が直面させられる「社会と欲望と他者」は、できあがりつつある「自我」にとって、ある意味で「恐ろしい怪物」みたいなものなんですね。



昔はローティーンの少年は文学の題材になっていない。たとえば古代ギリシアにはたぶんない。

おそらく、近代以前にはローティーンの悩みをうまく吸収する社会の仕組みが働いていたからだと思います。社会に共有されていた物語(神話)や、祭儀などの集団行動を通じて、大人たちが上手に悩みを乗り越えさせた。

現代にはその悩みを吸収する仕組みがなくなっている。
少年は大人に道筋を示されることなく、徒手空拳で「社会」「欲望」「他者」という得体の知れない怪物に向き合わなくてはならなくなっています。

だからとんでもなく間違った方向に進んじゃうこともあり得る。あやうい。
古屋兎丸はそんなあやういローティーンの少年の世界をどんな風に描いたか?



2『ライチ光クラブ』の「自我の世界」



『ライチ光クラブ』の「少年の世界」を理解するには、まず、古屋兎丸のファンとしてではなく、部外者としてこの漫画のストーリーにつっこみを入れてみることから始めるのがいいんじゃないかと思います。

(つっこみ1)
冒頭、秘密基地をのぞいてしまったために、社会科の女教師が内臓を引きずり出されて殺される。この先生の失踪がどうして学校で問題にされず、警察が動き出さないのか。

(つっこみ2)
光クラブの少年たちは家に帰って食事をして、朝起きて通学しているはずなのに、家庭生活がいっさい描かれない(家族が唯一登場するのは、タミヤの陵辱される妹タマコだけ)。この子たちの親はどうなっているんだ。血だらけの学生服を不審に思わないのか。

このようなつっこみは、リアルな物語であることを最初から放棄しているこの作品に対してそもそも見当違いなつっこみなんですけど、『ライチ光クラブ』の本質に触れていると思います。


ここには社会と家族がない
正確に言うと、あるにはあるのだが、それが意味あるものとしては存在していない。

光クラブが通う中学校は「螢光町(けいこうちょう)」という工場町にあります。
たとえば大田区蒲田のような、小さいけれど高い技術を持った下町のいきいきとした工場町ではない。巨大な工場が建ち並ぶ海辺の工業地帯です。

背景としてのこの町は、

ゴウン、ゴウン、ゴウン

という機械の音が響く、無機質な薄暗い街として何度か描かれます。
ただ一度だけ描かれる街の人たちの姿は、工場に向かう無表情な人の群れ。

希望のない、経済的にあまり豊かでない町。
その名のとおり、生気のない「螢(ホタル)の光」のような町です。
少年たちの親はおそらく工場に勤めている(テキストにはこのことへの言及がありません。『ぼくらのひかりクラブ』では案の定、工場に勤めていることになってます)。


自我が確立しはじめた少年にとって、
この工場町の「社会」も、そこに住む「大人の世界」も、意味あるものとはとても思えない。自分とは異質な、唾棄すべき醜い存在でしかない。
化粧の濃い社会科の女教師は、その内臓の醜さが象徴するように「醜い」大人です。

ゼラはライチ起動前に演説をします。

  「螢光町!! 黒い油と黒い煙に覆われた老いた街!! 疲れきった醜い大人たち!!
  我々は否定する!! あの醜い生き物たち”大人”を否定する!!
  我々光クラブこそ螢光町に灯る希望の光だ」

工場町と海辺のあいだに三年をかけて育て上げた「ライチの森」は、螢光町の希望のない風景を変えたいというゼラの欲望の産物です。ライチの果実を人造人間の燃料にしたのも、重油で動く「大人たちの機械」とはまったく異なる機械を造りだしたかったからです。ゼラは言います。
 
  「ぼくたちのかわいい機械(マシン)に油なんか飲ませられない そうだろ?」



『ライチ光クラブ』が描くのは「少年の自我」の世界。

自我とは「自分が主人公である」という意識です
主人公である「自分」は世界をコントロールしていなければならない。社会や家族という自分の「外側」の世界は、否定されるべきもの、あるいは自分に従属すべきものです。

『ライチ光クラブ』に社会と家族が希薄なのは当然です。

社会と家族の本質は「お前は主人公ではない」と言ってくることなのですから。


ゼラの自我は異様に肥大しています。
でもゼラは決してわたしたちに無縁なエイリアンではない。

わたしたちはみんな、「自分は主人公のはずだ」という思いと「お前は主人公なんかじゃない」と言ってくる家族や社会との葛藤を、それぞれのやり方でくぐり抜けて大人になってきたはずです。ローティーンの頃、社会や家族がいやでいやでしょうがなかった経験は、多かれ少なかれ誰にでもあったのではないでしょうか。

わたしたちの中にもかつてゼラがいたのです。


光クラブの少年たちはみんな「自分が主人公だ」という思いを抱いている。
しかしゼラだけがその思いを極限まで押し進めます。徹底している。

実を言うと、すぐれた物語の主人公は葛藤や矛盾を抱えているものです。
しかし「自我の物語」の主人公ゼラは、自分にも外側の世界にも葛藤や矛盾を許すことができない。自分が純粋でなければ、不純な外側の世界を否定することはできません。「純粋さ」「矛盾のなさ」こそが自我の自我たるゆえんなのです。

だからゼラは鉄の規律を課す。ルールは葛藤や矛盾を排除するものです。たとえば、大人になることを拒否している少年たちは、学生服の詰め襟をきちんと留めていなければ(「中学生らしく」なければ)ならない、というように。



葛藤や矛盾を排除するもうひとつのものが「論理」です。

実を言うと、「主人公」ということばと同じように、ほんとうの論理は葛藤や矛盾を排除しないものです。それどころか、葛藤や矛盾を取り込むことによって論理はより高度な論理になってゆく。ことばを替えると、論理は変化してゆくものです(科学の論理の進歩を見ればわかりますね)。

しかし、少年にとって論理は、不変不動の明晰性としてあらわれる。矛盾をはらまない、あるべき自我を具現するような明晰性です。

そういう「不変不動の論理」を具現するものがチェスです。ゲームの論理。


ゼラが光クラブの事実上のリーダーになったのは、チェスの力によってです。
小学校時代に光クラブをつくったのはタミヤくん。現在は名目上のリーダー。最初のメンバーはタミヤ、カネダ、ダフの仲良し3人組でした。
そこそこチェスが強いタミヤくんは、しかしチェスの天才ゼラに負けたことによってリーダーシップを奪われてしまいました。

ゼラにとって「論理」の力は純粋さの証(あかし)です。彼は、チェスの手を読むように、進行する愛憎と暴力のドラマを徹底的にゲームの論理で読み抜こうとします。結果としてその論理の読みは外れてしまうのですが、それは当然のことと言えます。

なぜなら。
チェスの動きにはチェスの論理以外のものは介入してきません。
でも、もし人間関係を読み解く論理を持とうと思うなら、読み解こうとする人間は、「自分のゲームの論理」の外側にある要素(他者)を考慮に入れて「自分のゲームの論理」そのものをつねに改変してゆかなければなりません。
人間関係とは、たとえて言えば、自分はチェスをしようと思っているのに、相手が将棋のルールで動いたり、ひょっとしたら、チェス盤をひっくり返して日本刀や機関銃を持ち出すこともある、そういうものです。「不変不動の論理」に固執していたら対処できない。

ゼラの「論理」は美しく一貫しているかもしれないが、動きと変化のない「論理」です。固い殻に覆われたライチの実のように。だから他者の動きに対応できないのです。



ゼラは自分を悪名高いローマ皇帝ヘリオガバルス(エラガバルス)になぞらえます。
自分を太陽神と化し、薔薇の花による窒息死の処刑をおこない、性転換手術すら望んで、18歳で殺されたヘリオガバルスに。
ヘリオガバルスは(史実そのものではないにしろ、その伝記作者たちの目に写ったかぎりでは)「わたしが主人公だ」という思いを権力を通じて実現しようとした人物です。

(ヘリオガバルスについてはとりあえずアントナン・アルトー『ヘリオガバルス――または戴冠せるアナーキスト』多田智満子訳、白水社を読んで下さい。

「薔薇の処刑」についてはサー・ローレンス・アルマ・タデマの有名な絵「ヘリオガバルスの薔薇」をご参考に。美しい絵です。この処刑方法に古屋兎丸は改変を加えていますが、その改変はけっこう意味があるとわたしは思っています。後述)
アルマ・タデマ『ヘリオガバルスの薔薇』
ヘリオガバルスは、天蓋に満載した薔薇の花を落として
窒息死させたとされています。

少年たちがゼラに惹かれるのは、ゼラに以上のような徹底性があるからです。

ぼくもゼラみたいに徹底的に主人公になりたい。そうすることによって社会や大人を否定しつくしたい。

それが彼らの思いです。ゼラにとって自分が「1番(アインツ)」であると自負するニコは、自分の目を潰してライチに捧げてしまうほどゼラへの忠誠心を示します。

しかし光クラブの団結は崩壊を運命づけられています。
そもそも「主人公」は一人でなければならないものだからです。

光クラブにライチと美少女カノンという触媒が投げ込まれたとき、崩壊の歯車が動き出します。




3 人造人間ライチ


「わたしが主人公だ」という光クラブの「少年の自我」は、醜い大人の社会を否定しようとします。

ゼラにとって、自我の世界が完成するためには二つのものが必要です。
自我を完成するための「力」と、主人公である自分の価値を証明する「美」です。

「力」は「ぼくたちの夢の機械(マシン)」ライチ。
「美」はライチが捕獲した美少女カノン。

ライチが起動して立ち上がったとき、少年たちは「でかい・・・」と感嘆の声を上げます。
ぼくたちが手に入れた「力」はなんて大きいんだ!
少年たちはそれぞれが主人公になるための力を手に入れたのです。


ライチ起動の前夜、ゼラは予言します。

  「しかしこの中に僕を裏切る者がいる・・・。それが誰かまではわからない。
  機械(マシン)の誕生で我々は破滅への道を進むのか?」

ゼラの予言は超能力によるものではありません。論理的必然です。

光クラブのメンバーは「主人公になりたい」という思いから、卓抜した能力と強烈な意志を持つゼラに従っている。ゼラは少年たちの自己実現の夢を見させてくれる存在です。

光クラブがライチという力を手に入れたとき、少年たちはその力を使って「主人公になる夢」を実現させようとしはじめるだろう。
しかし主人公は一人でなければならない(そうでなければ「主人公」とは呼べないからです)。だからライチが起動したとき、現在の主人公=皇帝ヘリオガバルスである自分を追い落とそうとする者がかならずあらわれる。

「それが誰かまではわからない」が、その裏切り者が「主人公でありたい」という思いを強く抱く人間であるのはまちがいない。

光クラブの崩壊を予言するゼラの言葉は、そういう論理的な必然を伝えています。しかしゼラは、上で書いたとおり、チェスの手を読むように、自分が裏切り者を見破って手を打てると考えています。「破滅」はまだ疑問文でしかありません(「我々は破滅への道を進むのか?」)。



ゼラの予言の場面は、『新約聖書』に描かれるイエスと十二弟子たちの「最後の晩餐」を思い起こさせます。皆さんよくご存じの、レオナルド・ダ・ビンチの絵の題材になった晩餐です。

  そして彼らが食卓について、食べていると、イエスが言った、「アメーン、あなた方
  に言う、あなた方の一人で、私と一緒に食べている者が、私を引き渡すであろう。」
  彼らは思い悩んで、一人ずつ順にイエスに、私ではないでしょうね、と言いはじめ
  た。
   (「マルコ福音書」14章 18-19節。田川建三訳著『新約聖書——訳と註1』作品
     2008)

晩餐の席で、イエスは弟子たちに葡萄酒を渡して飲ませ、これは「多くの人々のために流されるわたしの契約の血である」と宣言します(パンが「わたしの肉」であるとも言ったのですが、それは置いておきます)。ゼラも自分の血を混ぜたライチ酒を光クラブに飲ませ、「ぼくの血を分けた諸君はもはや私の一部と言ってもいい」と宣言します。

 (ところで、田川建三は註で、イエスのことばの「引き渡す」は「裏切り」までを意味しないことを、原文テキストからていねいに説明しています。官憲に「引き渡す」ことが実質的に裏切り行為であるから、あとの時代にユダが「裏切り者」と言われるようになったわけです。ちなみに、現在教会で用いられている新共同訳では「わたしを裏切ろうとしている」になっています。しかしここでのわたしの関心は、流布している「裏切り者ユダ」像を古屋兎丸がストーリーにどう利用しているかですから、これ以上深入りしないことにします。)

以後、ストーリーは、「少年の自我の救い主」ゼラを裏切る「ユダ」は誰か? という形で進行していきます。



しかし『ライチ光クラブ』のストーリーを織りなす糸は一本線ではありません。「裏切り者ユダ」の物語だけでなく、さまざまな既存の物語の糸を自在に操りながら、古屋兎丸は「少年の自我」の物語の織物を、複雑に豊かに織り上げていきます。前回「その1」で書いた、バロックの批評的引用をしているわけです。



メアリ・シェリー(森下弓子訳)
『フランケンシュタイン』
創元推理文庫
もう一本の糸はもちろんフランケンシュタインの怪物に代表される「人間の制御が効かなくなった人造人間」の物語。

『フランケンシュタイン』は、メアリ・シェリーが1818年に匿名で出版した小説で、何度か映像化されています。
フランケンシュタインに創られた、人間の心を持つ怪物が、復讐のために創造主フランケンシュタインの友人と家族を殺してゆく。

ライチも、電卓の指令に従うようにプログラムされたロボットでありながら、美少女カノンとの愛の中で次第に人間の心を持ちはじめ、光クラブの少年たちを殺戮します。

古屋兎丸は、人造人間の系譜をきちんと受け継ぎ、ライチを通じて「人間とは何か」の古屋兎丸なりの答えを出そうとしています。(この点については「その3」で触れます)





4 美少女カノン


光クラブの「力」ライチをざっと眺めたところで、

今度は「美」である美少女カノンを見てみましょう。

ゼラがライチを使って捕獲しようとしている少女は、性の欲望の対象ではありません。
それを所有することによって自分の価値が証明される究極の「美」です。


しかし、少年たち(の一部)にとって、ライチの少女捕獲は、自分たちの中でまだはっきりした形になっていない思春期の欲望の実現です。

「夢見る眼帯」少年ダフの欲望の記憶は、通りがかりの女子中学生たち。

 「おい見ろよ! 女・・・女だ!!」

下校途中の螢光中男子生徒たちの視線に、(他校の)女子生徒たちは

 「やだ気持ち悪い!!」
 「ジーッと見てるよ・・・」
 「螢光中の男とだけは関わるなってママが言ってた・・・」

と逃げ去る。

ダフは女子生徒たちの拒絶に耐えきれずに暗い表情で走り去ります。少女は、螢光町の貧しい世界に住んでいる自分の惨めさを思い知らせる、手の届かないあこがれです。

ライチが少女捕獲に出発したとき、ヤコブとダフは顔を赤らめながら少女への憧れを語ります。

 ヤコブ「なあ女の子ってどんな匂いなのかな?」
 ダフ「ぼ、僕はあんずの匂いだとお、思う」

ダフの「あんずの匂い」にわたしは少し切なくなります。昭和の香りのする少年期のうぶで純な欲望です。



しかし欲望は、矛盾のない澄みきった自己像を貫徹しようとするゼラにとっては、やっかいで邪魔なものでしかありません。幸いなことに彼にはジャイボがいる。

二人の欲望の場面は、厳密に言うと「同性愛」ではないと思います。
ゼラは仰向けの怠惰な姿勢で、美少年ジャイボの口唇愛で性欲を「処理」する。
ジャイボは道具にすぎません。

ジャイボの方は、自分の美しさと奉仕の姿勢でゼラの愛を勝ち得ようと願っています。
報われない、いちずな片想いです。

ゼラにとって「美」が重要であることをジャイボは知っている。
光クラブのなかでもっとも美しい自分こそ、ゼラにとって「1番(「アインツ」)」であるはず(実際に「アインツ」と呼ばれるのは、性愛なしにゼラに忠誠を貫こうとするニコなんですが)。

しかしジャイボは、ゼラの求める「美」が生身の美しさではなく、イデア(理念)としての「美」であることがわかりません。わからないから美少女カノンが捕獲されてきたときゼラは嫉妬する。その嫉妬が破滅をもたらすことになります。


ジャイボが「裏切り者ユダ」であることは、『マルコ福音書』の強烈なひねりによって暗示されます。ユダは、イエスに「口づけ」することを合図にして、祭司長たちにイエスを引き渡します。ジャイボのゼラへの口唇愛は、おそらく裏切り者ユダの口づけの変奏ではないかとわたしは思っています。


少年たちにとって美少女カノンは「美のイデア」「欲望の対象」「嫉妬の対象」とさまざまです。ゼラは、睡眠薬で眠るカノンの体の世話を、(今のことばなら「性同一性障害者」である)雷蔵だけに許可し、他の者が触れることを禁じます。カノンは美のイデアでなければならないのです。

  「絶対に触れることは許されない」
  「ましてや性的な欲望の対象として見ることも決して許されない」
  「我々光クラブに美の女神が降臨したのだ!!」


しかしダフにとってカノンは生身の存在です。手の届かない憧れの「女の子」が、ライチの力によって目の前にやってきた。ダフはひそかに彼女の体を触り、自慰行為におよびます。その行為から光クラブの実質的な崩壊がはじまります。




では当のカノンは何者か?

光クラブの登場人物でもっとも強烈な存在感を放つのがゼラであることに異論はないでしょう(ファンの人気投票ではジャイボがダントツの一位であるそうですが)。でも、ゼラはこれまで見てきたように「少年の自我」の主人公として一貫していて矛盾がない。ある意味でわかりやすい。

美少女カノンには、ゼラと対照的な多面性があります(その点で、後述するタミヤと共通しています)。

生身であると同時に、睡眠薬で眠る人形です。

さらに、目覚めたときにも三つの姿をあらわします。

ひとつ目は、世間知らずの天然ボケした「童女」。
 
  「わあ、大きいのねライチ。なんだかライチは機械のように見えるわ」
  「ずるいわライチ。わたしは難しいことわからないもの!」

その反対に、人間や世界の複雑さを知っていてそれを当たり前のように受け入れる「大人の知恵」の持ち主でもあります。「ませた少女」。

  「言葉をそのままとらえるなんてライチって子供ね!」

  ライチ「[カノンのことを]キレイだと思った。一緒にいたいと思った。」
   〈中略〉
  カノン「だめよ。そういうのは簡単に使っちゃいけない言葉なのよ。
    本当に胸の奥がぎゅうってなって
    この人を死ぬまで守りたいって思ったとき使う言葉よ。わかった?」
  ライチ「わかった」

  カノン「今夜も隣で眠らせて」
  ライチ「わかった」
  カノン「そういう時は優しく『おいで』って言うの!」
  ライチ「おいで・・・・」

このように、「ませた少女カノン」は、ライチに「楽しい」「悲しい」といった感情、「美味しい」という感覚、オルガンの演奏などを教える「教師」です。

そして「命令者」。
彼女がライチに下す命令はただひとつです。

  「本当の人間になりたいのなら人を殺してはいけないわ」

これは「教育」とは性質が違うと思います。
ライチへの教育にはカノンなりの説明があります。でも「人を殺してはいけない」には説明がありません。どうあろうとも、どんな人間も、理由を問うことなく守らなければならない命令です。無条件に従うことを人間に求める命令です。そういう意味で、人間を超える世界からの命令だと言ってよい。「命令者」カノンは言葉を換えれば「女神」カノンです。殺される少年たちに慈愛を示す女神(「観音」)であると同時に、「人を殺してはいけない」という厳かで揺るぎない命令(人間が人間であるための唯一の基準=カノン)を具現する女神。

つけ加えれば、ゼラにとっては永遠の「美の女神」=基準(カノン)。おなじ「女神」でもずいぶん意味が違いますね。



最初、ライチは人形やおばさんやおじさんを拉致してきます。ライチには「美少女」がわからない。少年たちは西洋の美人画を見せたりしながら「美」を教育しようと苦労するのですがうまくいきません。デンタクが「お前は人間だ」とインプットしたとき、ライチはカノンを誘拐してきます。


人間だけが美をわかる。
もちろんゼラはそのことを知っています。
ゼラが求めるのは「美のイデア」です。だから、生身のカノンを「本物より美しい鉄製少女」に改造しようとする。カノンから「あなた最低ね!」という第一声を浴びせられたとき、ゼラは「生きている少女はやはり幻滅するものだな」と言うのです。

しかしライチが理解した「美」は、ゼラが求める美のイデアではありませんでした。

ライチは「私がカノンを選んだ」とカノンに言います。「どうして私だったの?」と問われたライチは、先ほど引用したように「キレイだと思った。一緒にいたいと思った」と答えます。ライチの「キレイ」は、カノンに言わせれば「簡単に使っちゃいけない言葉」、本当に胸の奥がぎゅうってなってこの人を死ぬまで守りたいって思ったとき使う言葉」です。それは美のイデアではなく、人間に対する「感情」なのです。

ライチに美を教えあぐねているデンタクに向かって、タミヤはいみじくもこう言いました。

  「機械に美を教えるなんて無理な話さ!
  人間には感情があるからわかるんだよ!」

この言葉が、デンタクが「わたしは人間だ」とプログラムする大きなヒントになったのは言うまでもありません。

均衡のとれた「美のイデア」としてではなく、「童女」「ませた少女=教師」「人間を超えるものからの命令を伝える女神」の多面性を多面性のまま受け入れたとき、ほんとうの「キレイ」があらわれる。(バロック的美です)
ライチはそのことを次第に理解していって、最後の最後にもう一度、今度は迷うことなく「キレイだと思った。一緒にいたいと思った」とカノンにつぶやきながら死んでいきます。美は「キレイ」だと思う感情、「本当に胸の奥がぎゅうってなってこの人を死ぬまで守りたいって思」う愛なのです。


「主人公」である自分の価値を証明するはずのゼラの「美」が、カノンとライチの「愛」の感情に負けていく。それはそのまま、ゼラの「自我」の敗北の過程です。

(完結編「その3」に続きます)

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