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2016年2月23日火曜日

ミーカとモントリオール交響楽団



このところ「ミーカとモントリオール交響楽団」というアルバムを車中で聴いています。
FMで最近このアルバムの曲がときどきかかっているので買いました。

ミーカ(Mika) については「MikaとA.E.ハウスマン」という投稿をしたことがあります。
レバノン生まれのイギリスのシンガーソングライター。

知的な詞と音がクイーンを思い起こさせる。
声と歌唱法もフレディ・マーキュリーを髣髴させる(フレディより線が細いけど)。
デビューしてから「第2のフレディ・マーキュリー」みたいな役割を期待されたらしいこと、そのことに当人がうんざりしてたことは「グレース・ケリー」という曲を聴くとよくわかります。
「僕はフレディ・マーキュリーじゃないんだ。僕は僕なんだ」
それを皮肉に満ちた詞にしてしまう才覚がすてきです。

一方で、レバノンという複雑な政治事情を抱える国の出自ならではの「文化を越える歌」への並々ならぬ熱情があります。
「ヒーローズ」はそういう平和への希求の祈りの歌。

詞と曲と音が好きでずーーーっと聴いてきました。



だけれど、この人は歌い手としてほんとうにすごいのだろうか、という思いも頭の片隅にありました。

若い頃イギリスに留学してたときに、日本で聴いていた若手のシンガーたちのライブに行って「ああ、この人の曲は録音の加工でつくられたものだったんだ。へただ」と思ったことが何度かあります。
そして悲惨だと思ったのは、
歌っている歌手自身が「自分のヒット曲は加工された産物なんで、自分は本当の実力がないんだ」ということをうすうす気づいていること。
気づいているからパフォーマンスに余裕がない。脂汗を垂らしながら歌っている歌手もいた。

ミーカもその類の歌手じゃないだろうかというかすかな危惧を抱いていました。


が、杞憂でした。
「ミーカとモントリオール交響楽団」は 2015年のライブ盤です。
「ちゃんと歌ってるよ」と思いました。録音技術で作られた声ではない。

オーケストラの編曲もいい。
「グレースケリー」みたいな皮肉を交響楽の音でどう表現するんだろうと想像していましたがみごとな音にしています。上で触れた「ヒーローズ」も、私の好きな「アンダーウォーター」もいい音です。



そして「ラストパーティー」「ヒーローズ」という「理不尽な現実にあえて対抗する平和の祈りの歌」のティンパニーの音がとても印象に残りました。

祈りにはリズムが不可欠です。
ティンパニーが祈りにふさわしいリズムを刻んでます。

そしたらふと、
「SEKAI NO OWARI」が思い浮かんだ。

「SEKAI NO OWARI」は基本的に祈りの歌だと思っています。
彼らの曲にも古式豊かな打楽器の音が鳴り響く。

モントリオール交響楽団という伝統の音によって、ミーカの歌は「祈り」の度合いをうんと高めている。いいアルバムだなと思います。

2016年2月21日日曜日

ひと区切り

「パイエーケス人の園」を始めて4年半。
昨日、アクセスが 10万 を超えました。

特に根拠があるわけじゃないのですが、
始めるときに「とりあえず 10万アクセスを目指そう」と決めました。
右肩上がりにアクセス数が増えて、予想より少し早くたどり着きました。
現在は月6千前後のアクセスかな。

投稿がたまってきて、ジャンル別にブログをわけようかと思ったりもします。
しかし、
料理と政治とファッションと音楽と文学と哲学を同じスタイルで書く、
というのが大事な気がしていて、しばらくはこのままの寄せ鍋状態でいくつもりです。
ブログ内で検索できることだし。


最初の2年は「ムサカの作り方」がアクセス数 No.1 でした。
その後、「古屋兎丸論その1〜その3」がかなりのアクセスを集めて、通算で3万アクセスを超えています。
『ライチ光クラブ』についてかなり長く書いたものです。

そしたら。
年末に雑誌『ユリイカ』の編集者から、古屋兎丸特集号に論考を書いてくれないかとの依頼のメールが届きました。

ブログを読んでくださったようです。
「どこかで誰かに読まれてるんだな」という当たり前の事実がうれしい驚きでした。

もちろん引き受けました。
『ライチ光クラブ』ではなく『インノサン少年十字軍』についてなんですが。
27日発売予定の『ユリイカ』3月号に掲載予定です。
専門以外の分野の仕事がこんな形でやってきました。

仕事目的でやっているわけではありません。
でも、どこかで読んでいる誰かのために、これからも更新し続けようと思います。


2016年2月20日土曜日

ウンベルト・エーコ追悼

ウンベルト・エーコが亡くなった。
イタリアの記号論学者、哲学者、文化史家、小説家。
たくさんの顔を持つ魅力的な書き手でした。


エーコの記号論についてさっさか紹介するわけにはいきません。
世の中にはひとことで言ってしまってはいけないことがあります。
(ひとことで言ってしまってよいことももちろんあります)
大学とか研究とかは、そういう「ひとことで言ってしまってはいけないこと」を扱うのが仕事です(だから大学の授業の1コマは長いのです)。
エーコは「ひとことで言ってしまってはいけないこと」に、ねばり強い論理でとり組み続けた人でした。
彼の記号論は、言語≒記号とは何かというやっかいな難問にねばり強く取り組んだ成果です。


だからそれをここで簡単に紹介しようとは思いません。
でもエーコの記号論を紹介するのではなく、あえてひとことコメントをすれば。
彼の議論はエネルギッシュで、冒険的で、緻密で、知的な読者をわくわくさせるんだけれど、どの著作にも共通して「笑い」「ユーモア」があります。

たとえば、記号学の大先達、フェルディナン・ド・ソシュールは、人文系の人間なら必読なんだけれど、読んでてきつくなるときがあります。
論理のドラマチックな展開にわくわくしはします。でも頭をフル稼働させないとわからない。
当然と言えば当然。
『一般言語学講義』はジュネーヴ大学での講義を学生のノートから再構成したものだ、
というなり立ちもあるし(ソシュールが読み手を想定して書いた書物ではないということです)、なにより記号論はずばぬけて頭がいい人間にしかできないものだから。

エーコも超弩級に頭がいいと思う。難しいです。
でもときどきニッコリ笑っているエーコが垣間見える。
だから難しいけれど読むのが楽しい。
スイスのソシュールはフランス語圏の人、エーコと並ぶ記号論学者のジュリア・クリステヴァもフランス語で書いている。

わたしのフランス語とフランス思想の理解はたいしたことないのですが、
フランス思想には、部外者から見ると息が詰まるようなきまじめさがある。
特にクリステヴァの息苦しさにはまいる。

フランスをはさんだイギリスとイタリアは、
難しい問題を論理的に語るときにも遊びがあります。
テリー・イーグルトン
『美のイデオロギー』
紀伊国屋書店,1996

記号論ではない文学研究者だけれど、イギリスのテリー・イーグルトンなんかも笑いがある。文体がそもそもべらんめえで生きがいい(わたしはイーグルトンを「イギリスの吉本隆明」だと思っています)。『美のイデオロギー』なんかあちこちで大笑いしてしまいます(残念ながら邦訳はその笑いを伝えてくれてないんですが)。





エーコはイーグルトンとは違うイタリア人の笑い。おしゃれ。
(でも二人とも、難しいけれどやっぱり考えた方がいい問題を、ユーモアを交えながら楽しく考える。エーコもイーグルトンもわたしは好きです。)




エーコの記号論を語るのは大変だから(いつかきちんと語りたいと思ってますが)、

追悼に、小説『薔薇の名前』のことを書きます。
(ここからさきネタバレがあります。注意)
『薔薇の名前』(上下)
東京創元社, 1990

映画『薔薇の名前』

世界的なベストセラーになりました。
川島英昭の邦訳も労作だと思います。

(ショーン・コネリー主演の映画も「よくぞここまでコンパクトに収めた」と感心する名作。ただし映画を見て『薔薇の名前』がわかったと勘違いしないように)



中世イタリアの修道院で起きる連続殺人事件に修道士ウィリアムが挑む。
しかし『相棒』や東野圭吾の加賀恭一郎ものみたいなのを期待してはいけません。

いや、推理小説の本道をはずしてはいない。
サスペンスはあるし殺人事件の謎解きもみごとに遂行されます。
まずはおもしろい(と思う。そうじゃないとベストセラーにならない)。

だけれども事件を構成する細部の構築がただごとではない。
「神は細部に宿る」
を実践するようなストーリー展開です。

カトリック神学の論争や、お手の物の記号論(もちろん小説だから小難しい理論は言わない)まで、壮大な知のページェントが繰り広げられます。
『黒死館殺人事件』
が収録されています

『薔薇の名前』は、そういう知的エンターテインメントとして読まれた面が大きい。
とりわけ日本ではそうだったと思う。
小栗虫太郎『黒死館殺人事件』みたいな推理小説として。




しかし。

わたしは、『薔薇の名前』は、とりあえず知的エンターテインメントではあるけれども、
当時のヨーロッパが抱える問題にエーコがガチンコでぶつかった小説だと思っています。

当人たちがあからさまには言わないから見えにくいのですが、ラテン系の知識人は基本的に左翼です。
ま、それは言い過ぎだとしても、共産「主義」とは一線を画しながらも、マルクスを思想としてどう受け止めるかが20世紀西ヨーロッパ思想の最重要な問題だったのは確かだと思います(マルクスと並んでニーチェとフロイトも最重要な問題だったのですが、とりあえずそれは置いておきます)。

『薔薇の名前』はヨーロッパの左翼思想が行き詰まった時代に書かれている。
イタリアの極左組織「赤い旅団」がアルド・モーロ元首相暗殺事件を起こしたのが1978年。
『薔薇の名前』が出版される2年前です。

エーコは、左翼思想を時代遅れだとあっさり「清算」するのではなく、行き詰まった左翼思想が提示した問題をちゃんと受け止めて乗り越えようとしたのだと思う。

山上の修道院に集まるさまざまな思想背景を持つ修道士たち。
彼らは行き詰まった左翼思想家だと思う。
『薔薇の名前』の神学論争は、1980年という時代背景の中に置いて読むとわかりやすくなる。
それぞれは社会をあるいは教会を「正しい姿」にしようとする善意の人間。
だけれどもそういう「善意の知識人」が陥る悪への隘路。


連続殺人事件はそういう隘路の終着点です。
アリストテレス
『詩学』

修道院図書館にある一冊の本が事件を解く鍵となります。
アリストテレスの『詩学』。

『詩学』は悲劇論の部分だけが現存しています。
しかしもともとの『詩学』には、悲劇論のあとに喜劇論が続いていました。その喜劇論は失われています。



『薔薇の名前』の14世紀の修道院図書館には、現存していない「喜劇論」の写本があった(言わずもがなですが、エーコが考え出したフィクションです)。

それが殺人事件を解く鍵であるのと同時に、
当時の西ヨーロッパ政治思想の混迷に対するエーコなりの解答になっています。

思想には「笑い」が必要だ。
それがエーコのひとつの解答です。



そうすると、『薔薇の名前』にとどまらないエーコの著作全体を貫通する大きな視点が見えてきます。

彼が書くものに共通する「笑い」。
それは単なる読者へのサービス=エンターテインメントではない。
エーコの全思想がこめられているのが「笑い」なんだと思います。
思想は「悲劇」であってはならない。「喜劇」としての思想が人間を救う。
エーコの思想をあえて乱暴にひとことで言うとそれだと思います。

しかし。
脳天気に笑うことは簡単ですが、複雑で悲惨な現実をまっこうから受け止めながら笑い続けることはとても困難です。
エーコはその困難な道を歩き続けました。

心から哀悼の意を捧げたいと思います。




2016年2月17日水曜日

右京の同級生——『相棒』Season14

(ネタバレあり。注意!!)

見終わって「人となり」ということばがまず思い浮かびました。
「生まれつきの性質。天性。本性。」と『スーパー大辞林』にあります。

古代ギリシア人はそういうものを「ピュシス」と呼びました。
「自然」と訳されたりもします。
しかし、ピュシスは「生まれついている」ということばと同語源のことばで、日本語の「自然」と違うところは《あらゆるものには何かに向かってゆく必然性・方向性があらかじめ定められている》という感覚ではないかと思います。

どんぐりは姿が樹と似ても似つかないけれどもやがてコナラ属の樹になっていきます。
アボカドの種はアボカドの樹になっていく。
そういう方向性を種にしてすでに定められている。
「ピュシス」は植物をイメージするとわかりやすい。



外国人労働者をめぐる事件が題材でした。
不法滞在をしてでも母国の家族のために働かなければ人たちがいる。
彼らを助けるためには法を犯すこともいとわない女医小峰律子。
彼女は小学校時代、ほんの短い期間だったけれど右京の同級生だった。

一方で、彼らに仕事を斡旋する悪辣な社団法人がある。その社員が殺害される。
小峰律子と彼女に助けられている在留外国人が、殺人事件に関係があるらしい。

犯人は「弱きを助け強きをくじく」正義を選択した人物。
小学校時代、家が貧しいがゆえに盗みの疑いをかけられた少女を疑った教師に異議を唱えた小峰律子もまた「法が弱き者を助けられないのなら正義ではない」という信念のもとに犯人と同じ立場に立つ。
犯人も小峰律子もそういう「人となり」の人間です。

悪辣な社団法人の男はその対極の「人となり」の人間。
異国との架け橋になるという美辞麗句をキャッチフレーズにしながら、
実は私利をむさぼる男です。

二種類の「ピュシス=人となり」のどうしようもないギャップがみごとに描かれていたと思います。



だけれども。
ピュシスが決定的なのでしょうか。

事件解決後の小峰律子と右京の対話がとてもいい。
正義の子だった小峰律子が転校していったとき、ただ一人見送りに来たのが右京だった。
右京は小峰律子に自分と同じピュシスを感じていた。

そういう小峰律子が「法が弱き者を助けられないのなら正義ではない」と言う。
そして右京に「でもあなたが考える正義はそれと違うのね」と言う。
右京は「ええ、違います」ときっぱりと言う。

同質のピュシスをお互いにわかっていながら、
ふたりともお互いの考え・思想の違いを躊躇なく確認しあえる。

思想はピュシス(天性・本性)ではない。
それぞれが練り上げてきた産物です。
それをギリシア人は「ノモス」と呼びました。
「文化」と理解してもいいです。
アボカドの種はアボカドの樹になるべく運命づけられているのだけれど、
どんなアボカドの樹になるのかは文化によって変わってくる。

小峰律子と右京は、それぞれ違う文化を通じて自分の「正義」の思想を築き上げてきました。
二つの正義は、右京が言うように「ええ、違います」。

逆説的で伝わるかどうかわかりませんが。
右京の「ええ、違います」にもかかわらず、
二人の友情にはまったくひびが入らない。
二人ともそのことを確信している。

その確信はどこから来るのでしょう?
同じピュシスを共有している、ということしかないと思う。

悪辣な社団法人の男とは相容れないピュシス。
たがいに違うのだけれど、ともかく「正義」を優先させなければならないというピュシス。
二人のピュシスには品格があります。
品格をたがいにわかるからこそ、思想というノモスがいくら違ったって絆は揺るがない。


友達ってそういうことなんじゃないか。
「人となり」はどうしようもない。
どうしようもないけれども、同じ「人となり」を共有していると確信しあえているかどうか、それが友達であることの根源的な意味だと思いました。


品格のない人間は友達を持つことはできない。
お金で買えないものは確実に存在します。
それは友達ですよ。


そんなピュシスとノモスの複雑な関係を考えさせられた今日の『相棒』でした。

2016年2月13日土曜日

懐かしの書斎

吉祥寺で遅めのランチをとりました。
コピス近くの通称「ペニーレイン」をのぞく。
「コペ」はすばらしい定食屋なんですが、アルコールを飲みたいのでやめにしました。

ふと目にとまったのが「John Henry's Study」!!!

なんでびっくりマークをいっぱいつけたかというと。
40年ほど前、学生時代にときどき来て飲んでいたバーなんだけど、
すっかり記憶から消え去っていたのです。
帽子はわたしのです

古びた階段をのぼって3階がバー、2階がカフェ。

2階でランチを食べることにしました。
懐かしい。

ハンバーグ・ロコモコ風を頼みました。

味はふつうです。
昔はおいしいと思ってた。
味が落ちたわけではないと思います。
学生時代に通っていた東小金井の中華料理屋(いまだ健在)に数十年ぶりに行ったときに、「あ、あのチャーハンの味だ。」と懐かしく思うと同時に、
ご飯の炒め方がいまいちで味も感心しなかった。
こちらの舌が変わってしまったのですね。複雑な気持ちになりました。
「John Henry's Study」もそれと同じ。


グラスワインの赤を頼む。

わたしの好みではないのだけれど、
独特の果実味があって、ハウスワインという感じじゃない。
量はたっぷり。「安くなさそうだな」と思いました。
ら、案の定、お安くなかった。
コーヒーは薄かった。

でもいいんです。

古びて風情があるし、遠慮なくタバコ吸えるし。
今度は夜に3階のバーに来ることにしよう。


そのあとはあちこちウィンドウショッピング。

ふつうそうに見えてふつうじゃないジャケットとスーツが「ポールスミス」と「Takeo Kikuchi」に。すてきなシャツが「ポールスチュアート」に。
でも、こういうのを買ってたらきりがない。

しかし、「トゥモローランド」にすばらしいジャケットがありました。

これは試着してグラリときた。
「トゥモローランド」だからお安くない。迷ってます。


時間は前後しますが、
馬刺しのカルパッチョ
木曜日に友人三人と、何度か投稿したことがある「ザ・パッション」で夕食をとりました。
三人とも「ザ・パッション」ははじめて。
そしていい舌をしてます。
ヨーロッパでいろいろ食べてるし、うち一人はイタリアに一年在住してた。

牛ギアラとほうれん草煮込み

「ザ・パッション」、気に入ってくれるかちょっと不安でした。


気に入ってくれた。


みんな内臓料理が好きで、さいわい「牛ギアラのほうれん草煮込み」があった。

「馬刺しのカルパッチョ」、なんだか正確な中身を忘れたグラタンも好評でした。
ワインのセレクトも当たり。


なんだか忘れたグラタン。おいしかった。
翌日が休日じゃないせいか、店はわたしたちで独占状態。
気兼ねなくおしゃべりして楽しい時を過ごしました。
グラスワイン4杯+ワイン2本、いろいろ食べて1万8千円ちょっと。
リーズナブルです。



2016年2月11日木曜日

ゆりあぺむぺる(続報)その他

しばらく仕事が立て込んでいて、久しぶりに吉祥寺に出ました。

この一、二年、吉祥寺の休日の混み様は度を増してる印象があります。
若者だけでなく、中国人、韓国人、スペイン語圏の観光客とおぼしき人も多い。
店もどんどん入れ替わります。

昔からある喫茶店「ゆりあぺむぺる」のことは以前投稿しました。
今日もタバコを吸いに入りました。補足がいくつかあります。

「非喫煙者にはお勧めしません」
と書いたのですが、入口近くの席を除くとそれほどタバコ臭くありません。
強力な空気清浄機を使っているようです。
あくまで喫煙者のわたしが感じることですので、敏感な非喫煙者は気になるかもしれませんが。

「コーヒーは熱いけれどそれほどでもない。ふつうです」
と書きました。
あまり期待してないのでいつも「ブレンド」と適当に頼んでたのですが、
メニューを見るとブレンドが4種類あります。
今日は「ジャーマン」を頼んでみました。
そしたら。
コクがあっておいしかった。
ふつうよりおいしいです。

最後の補足は「ゆりあぺむぺる」の建物。
内装が立派なことは以前に書きました。
今日はじめて建物全体を外から見ました。
屋上に大きなプランターが並べてあって、緑が茂っています。
中央線沿線で昔からよく見かける小さなビルの風景です。
こういうビル、少なくなってきた気がします。

「ゆりあぺむぺる」があるのはJR駅の公園口付近のバス通り。
新しい店が多い。
昔、駅の階段を降りてすぐの奥まったところに、
台湾料理屋があって、よく行ってました。
近くにある女子校の数人が隣の席で食べてたことがあります。
どうやらクラブの先輩が後輩を連れてご馳走しているらしく、
豚の耳やら豚足やら小袋やらを、
「おいしいよ」と食べさせていた。
新入生(あるいは中高一貫だと中学生)らしい後輩たちがおいしそうに食べてる。
豚の耳を食べる女子校生。とてもほほえましい光景でした。
もちろん、店はとうの昔になくなっています。




井の頭公園付近まで散策。
店頭に下げてあるシャツに目を引かれて買ってしまった。
プリントの部分はリネン、あとはコットン。
造りもしっかりしてそう。

女性ものの店だと思いこんでたようです。
店員さんに聞くともう20年以上やってる店だそうです。
「ハートランド Heart Land」。

「警察嫌い」——『相棒』Season14

(ネタバレあり。注意!)

1日遅れの『相棒』評です。

飄々とした脚本でした。

犯人ではなく、殺人事件を向かいの部屋から画像に撮った目撃者に焦点を当てています。
容疑者が三人逮捕されるが決定打がない。
目撃者が撮った画像は決め手となる重要証拠なのですが、目撃者は警察嫌い。
かたくなに協力を拒みます。

伊丹刑事らは警察の手法で画像を手に入れようとする。
法務省から出向している冠城亘はそのやり方に納得できない。
ので、自分のやり方で目撃者に迫る。

だけれども冠城のやり方も強引。けっこうあくどい。

右京は、伊丹刑事のやり方に感心していないが、
冠城のやり方にはいっそう不快感を示す。

相棒部屋で二人が対立する場面がおもしろい。
冠城はコーヒーカップを、右京はティーカップを手に、お互いそっぽを向く。
冠城と右京の関係をさまざまに表象するのがコーヒーと紅茶。
今回も遊んでいます。

事件解決後、冠城は右京を「花の里」に誘う。
「いいですけど行く前にお話があります」と右京。
「お説教ですか」と冠城。
「長くなりますよ」と右京が言うとカメラが引く。
手前のオフィスの灯りが消え、
特命係の部屋の灯りの中に向かい合う二人が立っている。
それで終わりになります。

お説教の内容は観た人間なら予想がつく。
だからいっさいお説教に触れることなく終わらせる。
でも今日のストーリーは、このお説教がないと右京と冠城の関係が上っ面になってしまう。

内容を示すことなく、しかしちゃんとお説教で幕引きをする。
なかなかみごとな終わらせ方だと思いました。


この何回か、冠城亘を演じる反町隆史の手の動きが目立ちます。
反町隆史って前からそうでしたっけ?

ひらひらと舞うような手の動き、あざといと言えばあざといのですが、
『相棒』に関しては、芝居っぽい「冠城亘」という人物に似つかわしいと思いはじめました。