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2016年2月20日土曜日

ウンベルト・エーコ追悼

ウンベルト・エーコが亡くなった。
イタリアの記号論学者、哲学者、文化史家、小説家。
たくさんの顔を持つ魅力的な書き手でした。


エーコの記号論についてさっさか紹介するわけにはいきません。
世の中にはひとことで言ってしまってはいけないことがあります。
(ひとことで言ってしまってよいことももちろんあります)
大学とか研究とかは、そういう「ひとことで言ってしまってはいけないこと」を扱うのが仕事です(だから大学の授業の1コマは長いのです)。
エーコは「ひとことで言ってしまってはいけないこと」に、ねばり強い論理でとり組み続けた人でした。
彼の記号論は、言語≒記号とは何かというやっかいな難問にねばり強く取り組んだ成果です。


だからそれをここで簡単に紹介しようとは思いません。
でもエーコの記号論を紹介するのではなく、あえてひとことコメントをすれば。
彼の議論はエネルギッシュで、冒険的で、緻密で、知的な読者をわくわくさせるんだけれど、どの著作にも共通して「笑い」「ユーモア」があります。

たとえば、記号学の大先達、フェルディナン・ド・ソシュールは、人文系の人間なら必読なんだけれど、読んでてきつくなるときがあります。
論理のドラマチックな展開にわくわくしはします。でも頭をフル稼働させないとわからない。
当然と言えば当然。
『一般言語学講義』はジュネーヴ大学での講義を学生のノートから再構成したものだ、
というなり立ちもあるし(ソシュールが読み手を想定して書いた書物ではないということです)、なにより記号論はずばぬけて頭がいい人間にしかできないものだから。

エーコも超弩級に頭がいいと思う。難しいです。
でもときどきニッコリ笑っているエーコが垣間見える。
だから難しいけれど読むのが楽しい。
スイスのソシュールはフランス語圏の人、エーコと並ぶ記号論学者のジュリア・クリステヴァもフランス語で書いている。

わたしのフランス語とフランス思想の理解はたいしたことないのですが、
フランス思想には、部外者から見ると息が詰まるようなきまじめさがある。
特にクリステヴァの息苦しさにはまいる。

フランスをはさんだイギリスとイタリアは、
難しい問題を論理的に語るときにも遊びがあります。
テリー・イーグルトン
『美のイデオロギー』
紀伊国屋書店,1996

記号論ではない文学研究者だけれど、イギリスのテリー・イーグルトンなんかも笑いがある。文体がそもそもべらんめえで生きがいい(わたしはイーグルトンを「イギリスの吉本隆明」だと思っています)。『美のイデオロギー』なんかあちこちで大笑いしてしまいます(残念ながら邦訳はその笑いを伝えてくれてないんですが)。





エーコはイーグルトンとは違うイタリア人の笑い。おしゃれ。
(でも二人とも、難しいけれどやっぱり考えた方がいい問題を、ユーモアを交えながら楽しく考える。エーコもイーグルトンもわたしは好きです。)




エーコの記号論を語るのは大変だから(いつかきちんと語りたいと思ってますが)、

追悼に、小説『薔薇の名前』のことを書きます。
(ここからさきネタバレがあります。注意)
『薔薇の名前』(上下)
東京創元社, 1990

映画『薔薇の名前』

世界的なベストセラーになりました。
川島英昭の邦訳も労作だと思います。

(ショーン・コネリー主演の映画も「よくぞここまでコンパクトに収めた」と感心する名作。ただし映画を見て『薔薇の名前』がわかったと勘違いしないように)



中世イタリアの修道院で起きる連続殺人事件に修道士ウィリアムが挑む。
しかし『相棒』や東野圭吾の加賀恭一郎ものみたいなのを期待してはいけません。

いや、推理小説の本道をはずしてはいない。
サスペンスはあるし殺人事件の謎解きもみごとに遂行されます。
まずはおもしろい(と思う。そうじゃないとベストセラーにならない)。

だけれども事件を構成する細部の構築がただごとではない。
「神は細部に宿る」
を実践するようなストーリー展開です。

カトリック神学の論争や、お手の物の記号論(もちろん小説だから小難しい理論は言わない)まで、壮大な知のページェントが繰り広げられます。
『黒死館殺人事件』
が収録されています

『薔薇の名前』は、そういう知的エンターテインメントとして読まれた面が大きい。
とりわけ日本ではそうだったと思う。
小栗虫太郎『黒死館殺人事件』みたいな推理小説として。




しかし。

わたしは、『薔薇の名前』は、とりあえず知的エンターテインメントではあるけれども、
当時のヨーロッパが抱える問題にエーコがガチンコでぶつかった小説だと思っています。

当人たちがあからさまには言わないから見えにくいのですが、ラテン系の知識人は基本的に左翼です。
ま、それは言い過ぎだとしても、共産「主義」とは一線を画しながらも、マルクスを思想としてどう受け止めるかが20世紀西ヨーロッパ思想の最重要な問題だったのは確かだと思います(マルクスと並んでニーチェとフロイトも最重要な問題だったのですが、とりあえずそれは置いておきます)。

『薔薇の名前』はヨーロッパの左翼思想が行き詰まった時代に書かれている。
イタリアの極左組織「赤い旅団」がアルド・モーロ元首相暗殺事件を起こしたのが1978年。
『薔薇の名前』が出版される2年前です。

エーコは、左翼思想を時代遅れだとあっさり「清算」するのではなく、行き詰まった左翼思想が提示した問題をちゃんと受け止めて乗り越えようとしたのだと思う。

山上の修道院に集まるさまざまな思想背景を持つ修道士たち。
彼らは行き詰まった左翼思想家だと思う。
『薔薇の名前』の神学論争は、1980年という時代背景の中に置いて読むとわかりやすくなる。
それぞれは社会をあるいは教会を「正しい姿」にしようとする善意の人間。
だけれどもそういう「善意の知識人」が陥る悪への隘路。


連続殺人事件はそういう隘路の終着点です。
アリストテレス
『詩学』

修道院図書館にある一冊の本が事件を解く鍵となります。
アリストテレスの『詩学』。

『詩学』は悲劇論の部分だけが現存しています。
しかしもともとの『詩学』には、悲劇論のあとに喜劇論が続いていました。その喜劇論は失われています。



『薔薇の名前』の14世紀の修道院図書館には、現存していない「喜劇論」の写本があった(言わずもがなですが、エーコが考え出したフィクションです)。

それが殺人事件を解く鍵であるのと同時に、
当時の西ヨーロッパ政治思想の混迷に対するエーコなりの解答になっています。

思想には「笑い」が必要だ。
それがエーコのひとつの解答です。



そうすると、『薔薇の名前』にとどまらないエーコの著作全体を貫通する大きな視点が見えてきます。

彼が書くものに共通する「笑い」。
それは単なる読者へのサービス=エンターテインメントではない。
エーコの全思想がこめられているのが「笑い」なんだと思います。
思想は「悲劇」であってはならない。「喜劇」としての思想が人間を救う。
エーコの思想をあえて乱暴にひとことで言うとそれだと思います。

しかし。
脳天気に笑うことは簡単ですが、複雑で悲惨な現実をまっこうから受け止めながら笑い続けることはとても困難です。
エーコはその困難な道を歩き続けました。

心から哀悼の意を捧げたいと思います。




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