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2018年1月29日月曜日

西部邁を追悼する——文体の悲劇


西部邁(にしべすすむ 1939-2018)が亡くなりました。元経済学者・元東大教養学部教授で保守派の評論家。ウィキペディアをはじめとする彼の紹介はだいたいそうなってます。

「元」というレッテルがいかにも西部邁という人間にふさわしい。東大生のときに共産主義者同盟(ブント)の一員として全学連の中央執行委員を勤め、60年安保闘争に参加。既存の大学制度を否定する尖兵でした。

だけれども、アカデミズムに戻り経済学を追究する。東大教授になる。しかしそこにも安住せず、最終的には保守派の評論家として発言し続けました。

それまでの自分から抜けだし、その都度より正しいと思える道を選び取る。
それが西部邁でした。「元」が彼にふさわしいレッテルだ、と言ったのはそういう意味です。時代錯誤を顧みずに言い直すと、全学連の「自己批判」の精神を貫き通したとも言えるのですが。



西部邁はどちらかというと苦手なタイプ。
しかしずっと気になる存在だったから著作は読んできました。

なぜ気になっていたかというと。

二世代近く違うので、経験の激烈さはわたしの比ではないと想像するのですが、わたしもまた大学に入学しながら、大学という制度に疑問を抱き、大学闘争の最後の余波に参加しました。

その後アカデミズムに戻る道を選択し、大学教授になり、そして西部邁と同じように「文化的保守主義」とでも言うべき立ち位置にいる気がします。

「立場は違うけれど、ひとごとではない」
それが西部邁を読むたびに感じていたことです。



大学紛争から文化的保守主義への道とはどういうことか。
わたしなりに乱暴にまとめるとこういうことなんじゃないかと思う。

大学紛争のポイントは三つ。

ひとつ。大学が権威の場であることへの批判。
若い方々にわかりやすいように言えば。
『ドクターX』が戯画化して描いたような、権威のパイを奪い合う場としての大学ということです。国立大学はとりわけその傾向が強かったのではないかと思いますが、『ドクターX』はあくまで誇張されたフィクション。しかし現実にそういう側面はあった。

ふたつ。「権威」とはとりあえず無関係に、職人としてひたすら学問を追究する学者たちの場としての大学への批判。

これは難しい問題です。
だってそういう無垢な学者たちによって学問が支えられているのは事実ですから。
これまたテレビドラマを引けば、そういう魅力的な学者教授もときどき描かれますよね。
加藤一二三さんみたいに無垢な姿勢で学問を極めようとする人が。
だけれども、そういう無垢な学者が
「主観的には善意で、しかし客観的に悪に荷担する」ことはいくらでもあり得る。
ナチスの時代はその典型です。
アーリア人(白人)が優秀な民族であることを「科学的に」証明することによって、劣悪な民族ユダヤ人を駆逐すべしというヒットラーの政策を学者たちが支えました。そういう研究をした学者たちの多くは善意の人たちだった(と思う)。

三つ目は。
大学紛争は1960年代からの「カウンターカルチャー」の流れのひとつだった。
「大人は信用できない」。文化は大人のものだ。
大学とか研究とかはそういう大人のものじゃないか。それをとりあえずぶっ壊してみようじゃないか。
紛争に参加した学生たちのある程度の部分は、「共産主義思想」とはそれほど関わりなく、そういうカウンターカルチャーの時代の雰囲気に乗っかっていたと思います。学生はピケットストライキを行って授業をつぶし、教授たちをつるし上げた。

そして挫折しました。

なぜか?

もちろん権力の力はありました。
大学に機動隊が導入され、運動の中核を担う人間たちが排除された。

しかしわたしから見ていちばん大きな理由は。
運動に参加した学生たちの中途半端さだったと思う。
わたしは彼らを責めません。わたし自身が彼らだったから。

時代の空気というものがあります。
参加した学生たちは、その時代の空気の中で、上に書いた大学が抱える第一と第二の問題点に気づきました。ことばを代えれば、自分の頭で気づいたわけではない。
そしてそれは責められることではないと思います。

ちょっと脇道ですが。
O君は、大学時代からの敬愛する、そしてわたしが畏怖する友人です。
最近話したとき話題が学生運動の思い出になりました。
O君は運動に参加しませんでした。
「だってさ、参加してる人たちって、ふだんろくに授業に出てないし勉強もしてない人たちが多かったんだよね。それが大学はこうあるべきだとか言ってるのっておかしいんじゃない? と思ってたから」
O君は勉強家でした。そして昔から上のようなことを言っていた。一貫している。耳が痛い。わたしはまさにそういう学生でしたから。

O君は徹頭徹尾、自分の頭ひとつでものを考え抜く人物です。かなわない。わたしにはそういう強靱な精神はありません。

O君に答えるとすれば(情けないことに実はちゃんと答えたことがないんだけど)こうかな。

誰もが「自前で考え抜く」ことができるわけじゃない。

だけれども。
自前で考え抜くことはとても難しいけれど、時代のことばが自分の考えを助けてくれることはある。

「大人は信用できない」というカウンターカルチャーのことばもそうです。

時代を下って、たとえば「セクハラ」ということばが流通することで、
それまで「嫌だな」という感覚はあっても思考の対象ではなかったことがらが、
多くの人の思考の対象になった。
現在広がりつつある「ミー・トゥー」というハリウッド女優たちからはじまったことばもそうです。

こんなふうに、新しいことばができることは思考を広げてくれます。
思考とは煎じ詰めればことばの問題です。

自前ではないことばで自分の思考は広がる。
同時に、自前ではない時代のことばに自前のことばを付け加えることも大事です。
考えてるのは自分ですからね。
その点で学生運動に参加した学生たちの多くはことばに対して怠惰だったと思う。

思考はことばだ。
その自覚が薄かったから新しいことばをつくり出す努力を怠った。
そういうことなんじゃないかと思います。

もうちょっと説明を加えると。

言語学者のフェルディナン・ド・ソシュールは、人間は考えたことを「ことばで表現する」のではない、思考はことばそのものだ、というようなことを言っています。

「いや、心の中にはことばにならない渦巻きみたいなものがあって、それがわたしの頭の中の『本当のわたし』なんじゃない?」と思ったあなた。
ソシュールはことばにならない渦巻きみたいなものは否定していません。彼の「星雲」という比喩はそれです。でも彼に言わせるとそれは思考ではない。
紋切り型のロックの歌詞で
「こんな気持ち、ことばになんかできない」
ってありますでしょう?
でも
「こんな気持ち、ことばになんかできない」って、それ自体ことばじゃないですか。
ソシュールが言っているのはそういうことだと思います。

ことばはすでに存在している。そういう中にわたしたちは生まれてくる。
だからことばは本質的にわたしたちにとって心地よいものではない。
「こんな気持ち、ことばになんかできない」
にもかかわらず、わたしたちはことばでしか思考できない。

そこから自由になる術(すべ)はあるのでしょうか。

もちろんあります。

既存のことばでしかわたしたちは思考できないのだけれど、
既存のことばにちょっとだけ亀裂を入れる。ねじ曲げる。
そうすると新しいことばが生まれ、新しい思考が開ける。
ブルーハーツが「ドブネズミのように美しくなりたい」と歌ったとき、
「美しさ」ということばに亀裂が入りました。
「美しさ」の新しい思考が可能になった。
詩のことばとはそういうものです。

もうひとつの術は、
既存のことばのなり立ちをていねいにたどってことばを我が物にすることです。
紋切り型のことばに乗っかって(「ノリで」)ことばを使うのではなく、
ことばが背負っている歴史を知ることでことばをより本質的に、自由に使う。
西部邁が選び取ったのはこの道でした(回り道をしてようやく西部邁に戻りました)。

「お前ら、ノリでことば使ってるだけじゃねーか」

西部邁の文化的保守主義はそれだと思います。彼の「保守」は現状肯定では決してありません。数千年の歴史を背負ったことばの本質を確認することで、いい加減なことばで思考している現代を批判する。自分が考えていることばが実は文化そのものだ。それを自覚しないでどうして自由な思考があるうるのか? 大学紛争からアカデミズムへそして文化的保守主義の論客としてへの西部邁の道はそういうことだと思います。

蔵書の山に埋もれて西部邁の著作が見つけられない。
だから記憶で書いているのですが、典型的な例をひとつだけ挙げると。

「危機」ということばの使われ方への批判。

危機 crisis の語源は古代ギリシア語の「クリシス」です。
ヒポクラテス医師団のキーワードでもあって、患者が生きるか死ぬかが決まる決定的瞬間がある。その際に医師は何をするかの決断を迫られる。
マニュアルでは対処できない主体的な決断です。
「クリシス」のさらにもとになった語は「クリーノー」=「判断する」という動詞だからです。
だから「危険管理」はできるけれど(マニュアル化できる)「危機管理」はできない。
「管理」は想定内のできごとを前提にしているけれど、そもそも「危機」とは全力で判断することを迫られる想定外のできごとなんだから。
西部邁はそういうことを言っています。
ことばの歴史をたどることで、マニュアルで「危機」に対応できると高をくくり、自分の頭ひとつで判断し決定することを怠っている現代人への痛烈な批判です。

そういうことばの歴史の重みからの発言。そこにわたしは共感します。

だけれども。
それを語る西部邁の文体にわたしは危惧を感じていました。
絶滅を前にした恐竜の感覚、とでも言うのでしょうか。
「俺の言うことをお前らはわかんねーんだろうな。だけれども言っとくしかない」
という孤独感がただよう文体です。
「馬鹿は相手にしねーよ」という文体。

これは演出されたポーズだよなと思いもしましたが、
いや、これ肉声かもしれない、それがわたしの危惧していたことです。
同じ文化的保守主義の呉智英(くれともふさ)にある道化・笑いのスタイルがない。


西部邁の入水自殺の真相はもちろんわかりません。
単にうつ状態だったとも考えられます。

でもわたしにはそれだけだったとは思えない。
西部邁は絶望していたんじゃないか。

今日の毎日新聞夕刊に中島岳志が西部邁の追悼文を寄稿していて、
「死の約2週間前、ご自宅に招いていただき、約7時間、話をした。最後の面会になることはわかっていた」と書いています。
なぜ「最後の面会になることはわかっていた」のかを中島岳人は書いていません。
重篤だったのかもしれない(でも7時間の対話だぜ。すごい体力でしょ)。
思想的な自殺をほのめかしていたのではないかと想像します。

もしそうだとすると。

絶望しすぎだよと思います。
西部邁にならって歴史を振り返れば、
文化を背負ってきた先人たちは、程度の差はあれ、孤立感を抱いていた。
自分たちが絶滅する恐竜だという感覚におそわれていた。
でもそういう人たちがかすかな希望を手放さずに営々と続けてきたことで文化は維持されてきました。

西部邁さん、そういう文化の歴史をあなたは知っていたはずじゃないのですか。
あなたが想像するほどあなたは孤立していなかった。
同輩や後輩をもっと信じて欲しかった。
それが悲しい。

ご冥福を心から祈ります。

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